<特別展・桃山三都>豊臣秀吉の遺言状 人の心を捉える天下人の言葉 佐賀県立博物館・美術館学芸員 松本尚之さん
2025年01月21日 17時16分
桃山時代に栄えた三つの都市に光を当てる特別展「桃山三都-京・大坂と肥前名護屋」が、佐賀市の県立美術館で29日まで開かれている。豊臣秀吉の黄金の茶室(復元)をはじめ、国宝や国重要文化財級の名品が並ぶ。特別展を担当した県立博物館・美術館の学芸員松本尚之さんに見どころを寄稿してもらった。◇ ◇ 織田信長の後を継いで全国を平定し天下人となった秀吉は、京に聚楽第(じゅらくだい)や伏見城、大坂に大坂城を築き、朝鮮出兵の拠点としてここ肥前に名護屋城を築いた。秀吉は慶長3(1598)年8月、その生涯を伏見で終えた(享年62)。同年3月には、醍醐の花見を催した秀吉だが、体調を崩し、自身の衰えを自覚するに至る。そんな秀吉は、死の直前に一通の遺言状を認めた。その写が毛利家伝来の上掲資料である。語句を補って原文を読み下すとおおむね次のようになる。 秀頼事、成り立ち候様に、この書付候衆として、頼み申し候。何事も、この他には思い残す事なく候。かしく。 (追伸)返す返す、秀頼事、頼み申し候。五人の衆、頼み申し候。頼み申し候。委細、五人の者に申渡し候。 このように記し、「なごり惜しく候。以上」と結んでいる。 「秀頼」とは、秀吉次男で豊臣家後継者の豊臣秀頼、「書付候衆」「五人の衆」とは、遺言状の宛先である徳川家康・毛利輝元らいわゆる五大老を指している。末期に臨んだ秀吉は、ただただわが子秀頼を案じその成り立ちを家康ら五大老へ依頼している。秀頼の成り立ちは、秀吉自身が築き上げた豊臣家の成り立ちと、当然相即的であったことも背景にあっただろうが、それよりも本資料には、当時まだ幼少であった愛息の将来を案じるただ一個の父親の姿が映じているように思えてしまう。 この遺言状からさかのぼる慶長元年の12月2日付で、「とゝ(父)」と署名し秀頼へ送った秀吉自筆の書状(大阪城天守閣蔵)には、伏見城修復で現地にいるために大坂の秀頼に会えない秀吉の寂しさが、「口吸い」(接吻(せっぷん)の意)の表現を用いながらつづられており、あふれんばかりの秀吉の愛情が表現されている。 ちなみに、秀頼懐妊の知らせを、秀吉はここ肥前名護屋にいる際に聞いた。それは、文禄2(1593)年の5月22日付で正室おねに宛てた秀吉直筆の書状(佐賀県立名護屋城博物館蔵)から知られるが、秀吉は、あなたへ送るこの手紙が風邪が治ってから最初の手紙ですよ(「文の書き始めにて候」)とつづるなど、秀吉がおねの機嫌をとるような言葉もみえ、この手紙もまた読み応え十分の内容となっている。 特別展「桃山三都」では、これらを含む秀吉ゆかりの作品を展示している。秀吉についての人物評はまちまちあるだろうが、人の心を捉える秀吉の言葉を念頭に、ゆかりの展示品などを御覧いただき、改めて秀吉という人物について、そして彼が築いた「桃山三都」について考える機会ともしていただければ幸いである。 ■佐賀新聞創刊140周年記念特別展「桃山三都-京・大坂と肥前名護屋」 会期=29日まで。午前9時半~午後6時。休館=月曜。チケット=1400円、高校生以下無料。主催・佐賀新聞社、佐賀県立美術館。特別協賛=木下グループ、草苑、冠婚葬祭セリエンス、ホテルマリターレ創世。