2023年01月01日 15時00分
大きな潤んだ瞳に、しなやかな腰のライン-。竹久夢二(1884~1934年)が描き出した美人画は、大衆の心をつかみ、大正ロマンを象徴する存在となった。 1月2日、新春特別展「竹久夢二展」が佐賀市の佐賀県立美術館で開幕する。人気テレビ番組で2500万円の鑑定額が付いて大きな話題になった、夢二には珍しい油彩画が初めて公開されるのをはじめ、代表作の美人画、最晩年の作品まで夢二の画業をたどる。(福本真理) 夢二は早稲田実業学校に在学中から、雑誌や新聞へ絵の投稿を続けた。当時、近代日本の画家たちは美術学校などで洋画か日本画を専攻し、どちらかの画壇に所属するのが一般的だった。夢二は美術学校へは通わず、美術団体に属することもなく、独自の道を歩み続けた。 アカデミックへの憧れがなかったわけではない。画壇の大家だった岡田三郎助(佐賀市出身)や、藤島武二を尊敬し、雅号の夢二は藤島にあやかったほど。 1908年には岡田に美術学校へ進学するかを相談してもいる。夢二の才能を見抜いた岡田は、独学で個性を伸ばすよう勧める。夢二はそのアドバイスに従い、雑誌や画集から熱心に学び、クリムトやゴッホ、オーブリー・ビアズリーといった画家の絵のスクラップを続けた。 美術界から束縛を受けることがなかった夢二は、油彩、水彩、ペン、版画さらにデザインと、セオリーにとらわれず、自らが描きたいまま自由に描き続けた。明治から大正にかけて相次いで刊行された画集は、若い世代を中心に爆発的な人気を呼んだ。 夢二の作品世界は美人画にとどまらず、グラフィックデザイナーとしても手腕を振るった。14年、日本橋に開店した「港屋絵草紙店」は、夢二がデザインした木版画、千代紙、半襟、浴衣、帯といった生活を彩る品々を売り出し、女性たちに流行する。 この頃には“夢二式美人”と呼ばれるスタイルも確立し、「夢二が描いたような」は、美人の代名詞となった。雑誌の表紙やグラビアも次々に、夢二の美人画が飾った。 一世を風靡(ふうび)した夢二だったが、次第に人気は陰りを見せ始める。晩年、夢二は2年にわたる洋行へと旅立つ。海外での名声を得ることで、人気回復を図る狙いもあったのだろう。 しかし、その思惑は外れる。失意の連続だったのか、米国やスイスで描いたはずの作品は、現地の陽光を漂わせることなく、遠く離れたふるさと日本の風景をほうふつとさせた。郷里を思い、自身の生涯を振り返っていたのか。帰国後は病も悪化し、哀愁漂う作品で、その画業とともに生涯を締めくくった。 瞳が大きく、物憂げな夢二の美人画。いったいモデルは誰なのだろう。華やかな女性遍歴で知られる夢二だが、作品に影響を与えたのは、特別な3人の女性だと考えられている。 夢二は、通っていた早稲田実業学校の近くにあった絵はがき店の主人・岸たまきと1907年、出会いからわずか3カ月で結婚した。 「大いなる眼の殊に美しき人」と称されたたまきは、後に確立する夢二式美人画を想起させる。夢二が正式に結婚した唯一の女性で、3人の子どもももうけたが、2人の間にけんかが絶えず、2年後には協議離婚した。が、離婚後も同棲や別居を繰り返した。 そんな中、夢二はたまきを自活させるために日本橋に「港屋」を開き、夢二デザインの商品を置いた。東京名物の一つに数えられるほど店は大繁盛した。 夢二ファンで、店に出入りしていた女子美術学校の学生だった笠井彦乃が、夢二の最愛の女性となる。2人で旅していた最中に、彦乃は病に倒れる。交際を反対する彦乃の父親に引き離され、夢二は再び会うこともかなわぬまま、彦乃は25歳の若さでこの世を去った。 絵筆を取れぬほど、打ちひしがれる夢二を心配した友人らが紹介したのが、洋画家藤島武二のモデルを務めていたお葉(本名・佐々木カネヨ)だった。夢二のモデルとして、彼の美人画にふさわしい立ち振る舞いを身につけるほど尽くしたが、彦乃の面影を追い求める夢二との恋に苦しんだ。新春特別展「竹久夢二展」は2023年1月2日~2月12日まで。開場時間は午前9時半~午後6時(最終入場は午後5時半まで)。休館日は1月10、16、23、30、2月6日。観覧料一般1000円、中高生500円。主催 佐賀新聞社企画協力 株式会社港屋